「女性というには、あまりにもお年」最近、炎上した発言である。
政治家や、身近なところでは親、義親、会社の上司など、主に男性から飛び出すことの多い女性蔑視と呼ばれる発言。その失言のせいで、職を追われたり、ドン引きされたり、大バッシングを受けているにも関わらず、懲りずに繰り返される。
もしかすると、発言者はちょっとしたユーモアのつもりで言っているのかもしれないし、まったく悪気なく言っているのかもしれない。いずれにせよ、現代ではそういった発言は炎上必至、タブーとされている。
確かに、そのような発言を聞いて、女性の多くは不快な気持ちになるけれど、ひと昔前まではここまでバッシングされはしなかった。発言者も悪気なく言っているようで、バッシングを受けても、釈然としない態度である。もしかすると、こういった報道を見ても、「何がそんなに?」と疑問に思う人もいるかもしれない。
なぜ、女性蔑視発言は繰り返されるのか?そして、何がそれほどまでに問題とされているのか?連日、ニュースを賑わすこういった話題に対する素朴な疑問について考えてみた。
そもそも女性蔑視発言とは?
「蔑視」という言葉を調べてみると、「見下げること。さげすむこと」相手を侮って見下す、という悪い意味でつかわれる言葉とのこと。
「女性蔑視」とは女性らしさや女性に対する嫌悪や蔑視のことで、良い意味の言葉ではないとわかる。悪気があろうと無かろうと、受け手にそう受けとられる発言でもある。
女性蔑視の言葉の意味を聞けば悪い意味だということは理解しやすい。しかし、発言者からすると、自分の発言がなぜそう受け取られるのか疑問に感じることもあるだろう。
それは女性蔑視発言というものが、「男尊女卑」という考え方に基づいて発せられるものだからである。
男尊女卑の歴史
「男尊女卑」とは男性は偉く、女性はそれよりも劣っているという考え方。遡ると江戸時代頃に生まれたと言われている。江戸時代は武士が力を持っていた時代で、武家の家に生まれても、女性は武士にはなれず、生まれた時から男性よりも地位が劣っていると考えられていた。
江戸時代の儒学者、貝原益軒の書物にこのような記述がある。
「いい女とは、主人や舅姑に慎みを以て仕える。子どもを産める。いうことをなんでも聞く。などの女のこと」
「悪い女とは、子どもを産めない。悪い病気になる。おしゃべりが過ぎる女のこと」
現代では大炎上間違いなしの書物が良しとされていた。江戸時代は女性蔑視の意識が社会全体に根付く「これぞ男尊女卑」という時代だったようだ。
こういった社会全体に根付いた考え方というものは、簡単になくなるものではなく、明治以降も根強く残り、現在に繋がっている。
シニア世代といわれる人たちは、ほとんど意識しないレベルで「男尊女卑」の感覚が男女問わず刷り込まれている人が多い。そのため、幼い頃からずっと「そういうもの」だと思って生きてきたので、それを疑うこともないし、自覚もない場合が多いと考えられる。「それは女性蔑視ですよ」と言われても釈然としないのはそういうことなのだろう。
他国との比較
男女の格差は、日本だけではなく世界でも問題とされている。社会的な意味での性別格差の問題解決が国の発展にもつながると考えられている。
世界中の多くの国が男女平等の社会を目指す取り組みをしている。しかし日本は、男女格差が世界で最も大きい国のひとつと言われている。
世界各国の男女平等の度合いにおいて、日本は153か国中、121位。世界からみても、かなりの男尊女卑社会だ。
性別が理由で、不利益を被ったり、冷遇されるということをなくしていこう。と、世界の発展のために多くの国々が男女平等に取り組んでいる真っ最中なのである。
それなのに、先頭を切って推進していかなければならない人たちが、つい発してしまう女性蔑視発言。これは、本当に、うっかり、では済まされない。
日本は特に政治分野での男女平等が遅れている。日本が男女平等度合いで最低ランクなのもそのせいだ。
教育、健康分野では、男女格差はかなり改善されており、世界でも上位にいる。経済分野も少しずつ改善されている。大きく足を引っ張っているのは政治分野なのだ。
女性の政治家もまだまだ少ないし、女性首相に至っては歴代一人もいない。政治分野は男性社会であり、世代交代も進んでいない。
「男尊女卑」が刷り込まれている世代が多くを占める政治家から女性蔑視発言が頻繁に飛び出すのも必然かもしれない。時代が止まっているようなものなのだから。
まとめ
悪気なくポロッと出た女性蔑視発言が大炎上する世の中なのに、見渡せば男尊女卑の傾向は、まだまだ日常的にあると感じる。
しかし、一方で不利益を被っているのは女性だけではないかもしれない。そもそも、女だから、男だから、と言っている時点で、違和感を感じる。
何が「良」で何が「悪」なのか、見る側面によって感じ方も変わるし、受け取り方も、価値観もさまざまだ。ただ、性別や年齢、立場に関わらず誰かが傷ついていたり、辛い思いをしていたら、それが問題なのではないだろうか。
シンプルに、「人を傷つけたり、嫌がることをしてはいけません。そして、私も傷つけられたくない。」ということなのではないか。
「ダンソンジョヒ」そんな言葉を知らない小さな子どもでも、人を傷つけたり、嫌がることをしてはいけないことを知っている。それが本質なのだということも。
いろいろな価値観や考え方はあるだろう。大人になるにつれ、曲げられないものもあるだろう。しかし、自分の言動によって誰かが嫌な思いをしていることがあるとしたら、素直に反省し、改める、という謙虚さが大切なのだろう。
それができれば苦労しないよ、と言われてしまいそうだが。むしろ歳を重ねるほどに、それができる大人になりたいと切に思う。